どこまでも歩いていく

歩きながら考える。主に山登りとか。

I just wanna sayを教えてくれれば

先日I just wanna say を中学生の頃に教えてくれれば、今頃自分を取り巻く世界は変わっていたであろう、という謎の夢を見ました。

I just wanna sayの意味を調べると「言いたいだけ」と翻訳されます。個人的には、「〜を言いたいんだよ」というようにその後に続くものを伴って、言いたいことを強調する時に使っているのかなと察しております。このフレーズですが僕は学校で習った記憶はございません。しかし、アラスカに滞在していた頃よく耳にしていた言葉のひとつで当時僕も現地の人を真似して使っていました。

私たちが主に中学校や高校で習う学校英語と実際現地でネイティブの人たちが使う実践英語は別物であると指摘されることがあります。その意見には非常に賛同しております。個人的な例を挙げれば、洋画の字幕をなしにすると、とたんに聞き取れず何を言っているのか全くわからなくなります。数年前にアラスカで英語が母国語の環境に身を置いた経験があるにも拘らず、当人のリスニング能力は平凡なものです。聞き取れない時は笑ってごまかすか適当に頷いていました。みなさんもこのネイティブ英語に対する苦手意識については共感していただけるのではないでしょうか。どうして我々優秀な日本人がこのような事態に陥ってしまっているか、その原因は、ネイティブスピーカーの話す速度が早い、音が連結する、口語は学校で習わないことにあると確信しております。本人の努力不足という至極真っ当な意見には目をつむります。

ただ面白いことに、相手も同様に学校英語スピーカーになると格段に聞き取りやすさが増します。これはアラスカの宿泊先で出会った韓国人夫婦と仲良くなり、英語が話せる奥さんと会話した際に感じたことでした。もちろん彼らは韓国語が母国語であり、ネイティブではありません。自分と同じような発音やスピードで話される奥さんの英語はとても聞きやすく、また理解しやすく、懐かしさすら感じ大変感動すると共に、彼女も学校で勉強して英語を習得されたのだろうということを強く感じ取りました。

またこのことは英語に限らず当てはまるようで、学生時代アフリカに幻獣を探されに行ったご経験をお持ちの、僕が大変尊敬している作家高野秀行さんも彼の著書でこの感覚に近いことをおっしゃっていました。高野さんはアフリカに向かう前に事前にフランス語を勉強されていましたが、フランス人のフランス語は全然聞き取れず全く理解出来なかったそうです。しかし、フランス語が公用語であっても第二言語的な扱いのコンゴ人が話すフランス語はとても聞きやすかったと記述されています。

今回ネイティブ英語を表わす総体として、I just wanna sayのフレーズが僕の脳内記憶を司る海馬からにゅるりと出てきたようです。結論、あの穏やかに晴れた日の午後、夜勤明けで昼寝をしていた時に見た夢が何を示唆していたかというと、若い頃にもっとネイティブに通じる英語を教えてくれていたならば、一人暮らしの狭い部屋で縮こまってこのブログを書く事なく、今頃自分は世界を股にかけて活躍していただろうという至極都合のいい妄想だったわけでした。